風の教室
〜野の花・山の花でおなじみの広山流です〜
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浅きがゆえに・・・・・
小鬼百合 あちこちの野山にたくさん咲いていて、また、家の庭や畑の隅でも見かけた小さな鬼百合は、見かけなくなって久しく、今年、玄関先に華やかな姿を見せました。そして、鉄砲百合に似ていて花びらの背に紅い筋の入った博多ユリとも呼ばれる高砂百合は、何年も咲かなくなっていたのですが、どうやらこれも咲きそうな気配で、裏庭に背高く蕾を膨らませています。
 多忙の中で見過ごしてきた自然の、美しい輪廻のその先で、腹立たしい現実の在り様に日々とらわれていることの愚かしさに気付かされて、そんなに長くはない人生のその先を、ゆったりと見据えることのできない自分がいるのでした。
 
 どうしてこんなにも人間の心が変われるのか、日々を普通に生きている人間の、まだ未完成のはずの人間の阿修羅がどこからくるのか、少しづつ重ねられた思いが形となってあらわれる時、なぜ人を切り刻むという行為に及ぶのか。それほどまでに暗い思いを重ねてきたのであろうか。許せない思いというものは日々重なっていくのかもしれない。が、しかし、理性とか人間の尊厳を失うには幼すぎないだろうか、幼いから失うのかもしれないということも言えるかもしれないが、計り知れない人間の闇の底を覗くには未完ではないだろうか。

 私は、いつも浅薄な教育の在り様を批判してきた。
頭を抱えて苦しまなければならない考え方とか、導き出して引き出して教える道理とか、そういったものこそ未完成の人間に与えなければならない教育というものではないかと、いつも思ってきた。今でもそう思っている。
合理的に、時間的に、紙の上を滑っていく教育など教育ではないと思っている。善とか悪とかは教科書の上に滑っていくものではない。教育者は、最も人間的である必要があり、泣いたり怒ったり腹を立てたりしながら未完の魂に触れなければならないと思っている。
父も母も、学校の先生も、物分かりがよくてはならないのである。腫れ物に触るような教えは教えではないのではないだろうか。泣きながら訴えながら、時には怒りながら物事の善悪を道理を導き出して教えていかなければ、純粋な魂は目覚めない。

 <人を殺してみたかった>この言葉は、近頃よく聞く幼い犯罪者がいう言葉である。時には大人さえも・・・。
この信じられない言葉が、普通に聞かれるようになっている。
どうしてこんなことになっているのであろうか。

 物事を深く深刻にとらえ考えるという教育は、もはや遙か遠い彼方の、昔の古い教育なのであろうか。
哲学という言葉を聞かなくなって久しい。
 誤解を恐れずに言えば、合理的にものごとを考えて切り捨て切り捨てていく思慮が、はるか遠い昔の教育の踏み絵であってはならないのではないだろうか。

 大声を上げて道端で無邪気に遊ぶ子供たちの声を聴かなくなって久しい。
今は、その頃の自分と同じ年頃の子供を持つ甥が、かって、相談があるといって訪ねてきたことがあった。
小学校の4年生になったばかりであった彼が、「僕、塾に行った方がよいと思うおばちゃん?」と子供のいない私に聞いてきた。
「どうしてそう思うの?」とたずねると「塾に行かないと遊ぶ友達が誰もいなくなるんだよ・・・」と悲しげな顔をした。
教育が、塾を主体に展開し始めたのである。
誤解をおそれずにいえば、学校は、教科書の末端までを滑っていけばよい教育に変わっていったのではないかと思うばかりである。
学校の先生が、怒ったり泣いたりして生徒たちに対峙した時代は、過去のものであったのであろうか。







 

 
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